民主党代表選挙

先週金曜日(26日)、菅首相は民主党両院議員総会で正式に代表辞任を表明した。
後継を選出する選挙は27日に告示され、29日には新代表が誕生する。

立候補したのは、前原、野田、鹿野、馬淵、海江田氏の5氏。当初立候補に意欲を見せていた小沢(鋭仁)、樽床の両氏は、前日になって辞退したものの、政策不在の乱立と呼べる状況であろう。

民主党の代表選は事実上、日本の総理大臣を選ぶ選挙である。よって本来は、国家の未来をどの様に舵取りするのかを争点とすべきだ。
しかし、選挙戦の構図は、全ての候補が表向きは「挙党体制」を唱えつつ、実質的には「親小沢(元代表)」か、「脱小沢」かを巡り、多数派工作が展開されているようだ。

そもそも小沢元代表は、政治とカネをめぐり強制起訴され、民主党の党員資格を停止されている身である。
そういう人物が選挙で大きな力を持っている姿は、三十年前の自民党。刑事被告人となり、離党した田中角栄氏が自民党総裁選のキャスティング・ボードを握り、闇将軍と呼ばれていた姿と重なる。
今回の代表選は、派閥力学、数の論理に支配されていた古い時代の自民党の総裁選そのものだ。そんな自民党政治を変えるために、政治改革を唱え、民主党を作ったのではなかったのか?

短い期間であっても各候補者は、内向きの議論に終始することなく、自らの目指すべき国家像を明確に示して欲しい。
原発政策や復興財源などが論点となっているが、社会保障政策のあり方、短期的な円高対策や中長期の経済成長戦略、そしてTPPをはじめとする通商外交やアジアの安全保障など国家の基本的な政策についても、候補者は自らの考え方をはっきりと表明するべきだ。

私が最も気になっている争点は、民主党2009年マニフェストの取り扱いである。
このマニフェストが掲げた「支出を拡大し、収入(税)は現状維持」というのは、あり得ない、実現不可能な政策だ。これは2年間の民主党政権で実証された。

子ども手当てに象徴されるバラマキ施策は、いわゆる「大きな政府」に繋がるものであり、その修正に否定的な小沢グループや鳩山グループの支援を受ける海江田氏は、米国の民主党や英国の労働党のように、財政再建を先送りしても、社会保障給の維持拡大を重視するということだろう。
一方で、前原氏や野田氏は、マニフェスト見直し派と思われる。つまり、特例公債法案可決の前提となった民・自・公 三党合意を遵守し、ある程度政府支出を抑制しつつ、増税を含む財政の再建に取り組むということだろう。

民主党という政党は、どちらに向かうのか? 民主党の理念は何なのか?
今回の代表選を通じて、それをはっきりと示してもらいたい。

もう一つ、我が自民党もはっきりと政策方針を示さなくてはならない。
私は、その第一の柱として、持続可能な財政の確立を掲げたい。社会保障給付の抑制、国民負担の増大という痛みを伴っても、未来の日本のためにこの大方針は譲れない路線だ。
仮に民主党の新代表がこの方針と相反する政策方針を掲げる=いわゆるバラマキを継続するのであれば、遠慮無く三党合意は破棄するべきだと考える。

候補者の公開討論会が行われると言っても、今回の代表選挙は、所詮民主党の内輪の決めごとだ。
今は、民主党所属国会議員の良識ある選択を信じて、月曜日の選挙結果を待つしかない。

過去への責任

政治には「過去」「現在」「未来」への責任がある。

まず「過去への責任」。
建国以来、数多の先人の手によって、積み重ねられ、形作られてきた日本の伝統と文化。これを守り抜き、我々の一歩を加え、次世代に引き継いでいく責任だ。
優れた人材を育成する教育政策、日本の個性を発信する文化政策において特に重要な視点となる。

次に「現在への責任」。
今、現在、我々が直面している様々な課題に、迅速かつ的確に対処する責任だ。安全安心な国民生活を維持し、経済の発展と福祉の向上を実現しなくてはならない。
言うまでもなく現下の最重要課題は未曾有の津波災害からの早期復興だろう。加えて世界的なデフレからの脱却と成長をめざす経済戦略、さらにはエネルギーの安定確保や安全保障政策なども今日的課題と言える。

最後に「未来への責任」だ。
今日の平和と繁栄の果実を子どもや孫たちも末永く享受できるよう、持続可能で安定した社会システムを維持する責任だ。
社会保障制度と税制の一体改革、借金漬けの財政構造の再建、数十年先を見据えた科学技術政策などが「未来への責任」の中心になる。

私がこのコラムを「未来への責任」としたのは、①ライフワークとしての科学技術政策、②10年来取り組んで来た財政再建、③税と社会保障の一体改革、この3つがこれからの政治活動の中心的課題となると考えたからである。

もちろん、「過去」「現在」「未来」の責任は全て密接に関連している。
政治の現場では、ともすれば現在の政策課題に捕われがちだが、政治家は常に歴史の流れの中で現在を位置付け、「過去」に想いを馳せつつ「未来」を見つめながら事に当る必要がある。

“8月”という月は、古来、祖先の霊を祀るお盆の月であるが、六十余年前の敗戦からは、改めて戦禍の犠牲になられた方々に想いを馳せるべき月となった。
当然のことながら、毎年、この時期のTV番組には第二次世界大戦に因んだ特集が数多く見られる。
国民全体が「過去への責任」を考える上で、これらの映像は大きな意味を持つ。

一年前の8月14日に「歸國(きこく)」というTVドラマを見た。
終戦記念日の平成22年8月15日、深夜の東京駅に幻の軍用列車が到着、戦争で玉砕したはずの兵士の「英霊」たちが降りたった。夜明けまでの数時間、現在の日本をさまよい歩いた英霊たちは、今の日本に何を見たのか…というストーリーのドラマだった。

ドラマの中で英霊の一人は昔の婚約者に語りかける。
「日本は本当に幸せになったのか?」と
「日本はものすごく豊かになったわ。だけど幸せなのかどうかは分からない。確かに豊かになったけど、日本人はどんどん貧しくなっている気がする。」と婚約者は答える。
夜明け前の東京駅から南の海に帰って行く英霊たちは「今の様な日本を作るために我々は死んだつもりはない」という言葉を残していく。

東日本大震災から早や5ヵ月余、被災地の復旧復興が急務であることに変わりはない。
ただ、目の前の物質的な復旧復興に邁進するのみでなく、時には立ち止り、過ぎ去った数十年前の日本に思いを馳せ、先人の声に耳を傾けることも必要ではないだろうか?

震災直後、東北の被災地の方々は、地域の絆で育まれた秩序ある行動で、ニッポン人の素晴らしさを世界に発信してくれた。都市への人口集中と核家族化の過程で失われていった住民相互の絆が、被災地のコミュニティには残っている。
“豊かさ”とは経済的、物質的な尺度のみでは測れない。三陸海岸の津々浦々で営まれている地縁社会こそが、日本らしい豊かな暮らし(日本のあるべき姿)なのかもしれない。

8月は私にとって毎年のことながら「過去への責任」について考えさせられる、そんな日々である。

大震災発災から5ヶ月

「震災復興に一定のメドがついたら若い世代に引き継ぎたい」という決めセリフで、菅直人と鳩山由紀夫の茶番劇が演じられたのは、6月2日のこと。
当時は今すぐにでも退任するかと思われた菅首相は、次々と思いつきの懸案を語り続け、まだまだ総理の椅子を手放そうとはしない。
今や、「一定のメドがつくまで」という言葉は、「いつのことか定まらない将来」を指す意味のように使われている。

この間、与党執行部があの手この手で自らの党首に総理退陣を迫る茶番、閣議で調整されない「脱原発宣言」を発表する首相記者会見など、言語道断の振る舞いが繰り広げられている。これらが示すのは、強すぎる総理の権限、暴走する独裁者“菅直人”に振り回される日本の姿だ。

2ヶ月の間、与野党間のみならず、与党・民主党内でも総理の退陣に向けて、様々な駆け引きが行われてきた。
しかし、被災地の復興は具体的に進んだのだろうか? 景気回復をめざす政策は打ち出されたのだろうか? 社会保障政策の方向性は議論されたのだろうか?
このままでは、日本は退化を始め、経済的な縮小を余儀なくされる。 

首相周辺が退陣の条件としている「再生可能エネルギー特別措置法案」と「平成23年度公債特例法案」の成立。
だが、前者が成立しても太陽光エネルギーなどの定額買い取り制度が導入されるのみで、即座に発電所が建設できる訳ではない。一方、太陽光発電所が急激に増えてくると買い取りコストも上昇し、電気料金が値上がりすることになる。
そもそもこの法案の目的は温暖化対策であり、提案された2月時点の状況では、再生可能エネルギーは原子力を補完する地位(原子力で稼いだ利益で、再生可能エネルギーを拡大する)であったのだ。孫さんをはじめ発電所設置者は儲かるのかもしれないが…、このような未熟な法案を熟議なしに通す必要があるのか?

後者は、本来、3月末に当初予算案と一緒に成立していなければならない法案だ。それがここまでずれ込んだ直接の要因は衆参のねじれ状況だが、本質的な原因は民主党マニフェストの財源見通しの甘さにある。
そもそも、予算関連法案の審議がストップするリスクは、昨年の参議院選挙で衆参ねじれ現象が生じた時点で分かっていたことだ。

何回となく繰り返された与野党協議を経て、先週、漸く民・自・公3党は子ども手当についての修正合意をした。バラマキ色をやや薄めた、所得制限付きの児童手当の復活だ。
岡田幹事長をはじめ政府与党幹部は民主党2009年マニフェストについて、「見通しが甘かった」と言及し、不十分ではあるがマニフェストの破綻を認め国民に謝罪もした。

民主党内ではこの発言を巡って、「マニフェストは民主党の魂、子ども手当の撤回は自殺行為」(鳩山前首相)との批判もなされている。しかし、「無駄を無くせば財源はあるんです」と選挙カーの上から絶叫されていた演説を、鳩山さんはよもや忘れられてはいまい。

一方、自民党内でも公債特例法案の対応については意見が分かれている。この法案を盾にとり、あくまでもマニフェストの全面撤回を求め、解散を迫っていくか? それとも、今年度財政の早期正常化を進めるか?
私が選択するのは、後者だ。
残されたバラマキ3K(高校、コメ、高速)については、論点を整理し年度内に引き続き議論することとすれば良い。今は、多少の妥協をしても政治を少しでも前に進めることが求められている。

マニフェストが国民との約束(契約)である以上、民主党は野党よりも国民に対して説明責任を負っている。いずれにしても民主党政権の功罪は自民党が追求しなくても次回の総選挙で民意により裁かれるのだ。

大震災発災から5ヶ月、週末には犠牲者の初盆を迎える。
数多の御霊もふるさとに帰って来られるが、帰るべき家を失った方々も多い。
遅々として進まない被災地の復興の光景を見たら、御霊も安らかな想いにはなれないだろう。
あらためて政治が果たすべき責任を考えさせられる。

科学技術の力

2か月ほど前になるが、島津製作所の田中さんが今回の原発事故を顧みて、「科学技術に携わる者として、もっと貢献できることがあったのではないかと悔やむ思いの一方で、科学技術にはまだやるべきことがたくさんあると痛感した。…日本の科学技術はダメだと落ち込むよりも、新たな課題を与えられたと思い、再出発の起点とすべきだ。」と述べておられた。

さすがはノーベル賞受賞者の言葉だ。だからこそ科学は進歩できる。
事故は事故としてしっかりと受け止め、原因を分析しなくてはならない。だが、事故にひるんで全面撤退してしまえば、これまでの努力は無に帰する。

今、日本全国が原子力エネルギーに否定的な見解に傾いてしまっている。しかし、原子核が生み出す高効率エネルギーを放棄してしまって良いのだろうか?
すべての命の源である太陽の光を生み出しているのは、水素原子が合体してヘリウム原子となる核融合反応だ。
地球上でこの核融合炉を安全に実現できれば(※1)、我々は半永久的なエネルギー源を手にすることになる。
その実現を目指し、米国、EU、中国など7か国の国際共同研究が進んでいる。もちろん日本もその一員だ。夢の実現を目指して、研究を前に進めたいものだ。

古い話になるが、放射能(Radioactivity)の名付けの親で、2度もノーベル賞を受賞したキュリー夫人。彼女が、ラジウムから発せられる青白い光に期待したのは腫瘍治療への有効性だ。
ラジウム発見後も放射性物質の研究を続け、レントゲン撮影機の改良や放射線治療の研究に貢献した彼女は、やがて長期間の被ばくによって白血病に倒れる。(残念ながら当時、放射線被ばくの危険性は認識されていなかった。)しかし、その研究成果は、CTスキャンやガンの放射線治療に繋がっている。

使い方を誤れば、一瞬にして数多の命を奪う放射線も、リスクをしっかり認識し、被爆線量を制御して使いこなせば、人類に多大な恩恵を与える平和の技術となる。

光と言えば、この春、播磨科学公園都市に完成したX線自由電子レーザー施設「SACLA(サクラ)」が、6月7日に波長1.2Å(オングストローム※2)という世界最高レベルの“上質で強力な光”を発振することに成功した。
この装置を使えば、原子レベルの一瞬の動きをとらえ、創薬の基礎となるタンパク質の構造解析やナノテクノロジーの発展に貢献できる。先日取り上げた「京速コンピュータ」と並ぶ、日本が誇る国家基幹技術の一つだ。

双方とも、計画段階から深く関わった愛着あるプロジェクトだが、ともに民主党政権の「事業仕分け」で、一つ間違えば計画に大きな影響がでた可能性もあった。とにかく、無事に初期の性能を達成できたことを心強く思う。

政治家が政策選択を誤れば、未来を拓く科学技術の可能性をつみ取ってしまうことも多々考えられる。
それは科学技術創造立国を目指す日本にとって、致命的な損失に繋がりかねない。
場当たり的な人気取りのパフォーマンスが政治だと思っているような方々には、国政を任せるわけにはいかないと、改めて思う。

※1 残念ながら、兵器としては水素爆弾が既に存在する。
※2 オングストローム:長さの単位、100億分の1メートル。原子の大きさは約1Å。