年の瀬に思う

あと数日となった平成23年という一年は、歴史に名を残す年となるにちがいない。

まず第一に内外ともに歴史的な災禍の一年だった。
東日本大震災、新燃岳の噴火、台風による集中豪雨。海外でもニュージーランドやトルコの大地震、タイの大洪水…。未曾有の自然災害の数々は、私たち人類の文明のあり方に再考を求めているかのようだ。

何よりも東北を襲った大津波と福島原子力発電所の破綻は、我々に大きな衝撃を与えた。20世紀の科学技術により、避けられると思っていた津波被害、制御できると考えられていた核分裂。しかし、千年に一度の地の揺らぎの前にその想定は脆くも崩れ去った。千年と言っても46億年の地球の歴史からするとほんの一瞬。何度も繰り返された「想定外」という言葉は、技術者の言い訳としか言えないだろう。
被災地の一日も早い復興を願うとともに、故郷を離れ仮設住宅で生活を続けておられる方々に、改めてお見舞いを申しあげたい。

しかし、私たちはこの犠牲をも糧にして、未来への進歩を続けなくてはならない。そのキーワードは、「共生と絆」そして「日本人」ではないだろうか。

大震災の直後、すべてを波に流された東北の被災地で、冷静沈着に整然と耐え続ける被災者の方々の姿、共に助け合い歯を食いしばって避難生活を送られている被災者の姿は、世界に深い感銘を与えた。
これは私たち人類の本質であるべき社会性に根ざすものだ。仁義を重んじ、他者を思いやる心が、このような自制ある行動を導いたのだろう。

自然との関係も同じ。西洋的な近代文明は科学技術の力により、自然を制御し、山や川を鎮めることを是としてきた。しかしそのような発想では、自然の災禍から逃れられない。
水田農業を主たる産業としてきた私たち「日本人」は、太古より、自然への畏怖のこころを保ち続け、自然の一員として社会を営んできた。
多様性を認めあう伝統、すべての生命体との共生をめざす文化は、日本の強みとなるだろう。

私たちは今こそ、減災、防災の思想を重んじる「災害文化」を構築し、世界に発信しなくてはならない。災害による悲劇を胸に刻み、しっかりと伝承することが、次なる被を避ける、減災に繋がるのだ。
二度と「想定外」という言葉を使わぬように。「忘れた頃にやってくる」という格言を使わぬように、私たちはしっかりと記憶しなくてはならない。

暗いニュースの多かった一年の中で、国民に大きな感動を運んでくれたのが「なでしこジャパン」の快挙だ。厳しい環境の中で、幾多の困難を乗り越えて世界の頂点に登りつめたなでしこ達、「苦境に立っても決して諦めない」という彼女達のメッセージは、被災者の皆さんに大きな力と希望を運んでくれたに違いない。

一方の我が国の政治の混迷は一向に収まらない。政権交代から3度目の予算編成で、民主党は遂にマニフェスト政策から全面撤退した。社会保障制度改革の方向も見えないまま、国の借金は増え続ける。ダムも造り続けるし、高速道路の無料化はあきらめた。子ども手当てには中途半端な所得制限がつく。普天間基地問題も解決策が全く見えない。
約束違反のオンパレードで国民の期待を裏切り続けた結果、国民の間に閉塞感が広がり、政治不信は益々拡大している。政策の議論より与野党対立ばかりが目に付く国政状況が政治不信を更に増大させている。

「無信不立」との孔子の言葉が改めて心にしみる、そんな平成23年の年の瀬だ。

坂の上の雲

「坂の上の雲」と「南極大陸」。私が今注目している2つのTVドラマだ。

「坂の上の雲」は、言わずと知れた司馬遼太郎氏の代表作。近代国家(坂の上の雲)の建設に向けて、日本が懸命に駆け抜けた明治という時代を、旧松山藩出身の3人の生き様を中心に壮大なスケールで描いた歴史ドラマである。
ロマノフ王朝末期のロシアを再現する海外ロケに、旅順攻防戦や奉天大会戦、そして日本海海戦の戦闘シーンを描くとあって、さすがのNHKでも予算不足に陥り、3カ年にわたる制作、放映となったようだ。

植民地拡大競争を繰り広げる欧米列強国。その仲間入りをすべく近代化を図る日本。その行き着く先は、朝鮮半島と中国大陸北部をめぐるロシアとの対立だった。結果、先進国の座をかけて、この超大国と雌雄を決すべく戦わざるを得なくなる。
ひたすら祖国の繁栄を願って、西洋の知識を吸収する若者の姿。国力戦力の差を埋めるべく、知力を結集して練り上げる戦術と冷静沈着な外交戦略。
国家の存亡を一身に背負い、ロシアと互角に渡り合った明治のリーダー達の気骨に、感動を覚えずにはいられない。

もう一作は「南極大陸」。第二次世界大戦後、廃墟から立ち上がった日本が国際社会への本格復帰をめざし、国の威信をかけた南極越冬に挑戦するドラマだ。
日本各地の都市が焦土となった状況から再出発して、わずか12年後(昭和32年)のことである。当時の国力を考えると、充分な装備を整えることは叶わず、南極大陸での越冬観測は、かなりのリスクを伴う挑戦だった。
実際、観測船「宗谷」は氷に閉じ込められ身動きがとれなくなり、ソビエトの「オビ号」(ドラマはアメリカ船となっていたが)に助けを求め、かろうじて氷海から脱出したのだ。

原作の題名が「南極越冬隊タロジロの真実」であり、最大の見せ場は、置き去りにされたアラスカ犬がたくましく真冬の南極を生き抜き、次期越冬隊と出会う感動のシーンだから、主役は犬達なのかも知れない。

しかし、この物語のもう一つの見どころは「科学技術分野でも先進国の仲間入りをする」という国家目標に向かって、南極という未知の大陸の国際共同観測に参加し、あらゆる困難にチャレンジする研究者たちの姿ではないだろうか。

二つのドラマに共通しているのは、日本という国家に対する先人達の熱い思い、そして、日本人としての誇りである。彼らの尊い「志」があったからこそ、今の日本がある。

学校教育では「日本史が軽んじられてる」との意見も多い。
事実、ゆとり教育と受験中心教育のなか、高校の履修科目で日本史は選択科目の一つになってしまっており、義務教育においても明治から昭和にかけての近代史教育は、特に内容
が薄いように感じる。

しかし、自国の歴史や文化を知らない主体性のない人物は、国際社会でも評価されない。日本史をしっかりと学ぶことは、国際化の時代だからこそ重要となるのではないだろうか。
なかでも明治から昭和への歩みには、先人により創られた教材として、誇りを持って学ばなくてはならない多くのメッセージがある。

国難といわれる今だからこそ、我々は歴史の中の先人の心に学び、この国の未来に責任を持たなければならない。
明治から昭和の時代には欧米先進国という明確な目標(坂の上の雲)があったが、今や先頭を駆ける一員となった日本には倣うべき先例はない。今はまず、「我々がめざすべき“雲”は何か」、そして「そこにたどり着くために何を為すべきか」について、しっかり議論することが求められている。

「今、この国の為に何ができるか?」昭和55年(1980年)大ヒットした映画「二百三高地」の新聞広告のキャッチコピーが、私の頭をかすめた。
国政を志す一人一人がこの問いに応えたなら、今の様な政治にはならない筈だが…。

国会閉幕…論戦を逃げるな

平成2年2月の総選挙、私にとって2回目の選挙は、前年4月から導入された消費税への反対の大逆風の中で行われた。
当時の野党第一党社会党は、85→136と大きく議席を伸ばし、自民党は何とか過半数は確保したものの300→275と大きく議席数を減らした。私も一度は落選の誤報が流れるほどの辛勝で、まさに冷や汗ものの選挙だった。

だからこそ、選挙で消費税引き上げを訴えることの難しさは、嫌と言うほど分かっている。それでも、先週も述べたとおり消費税増税は必要なのだ。団塊世代が高齢者の仲間に入る時期を目前にして、これ以上の痛みの先送りは許されないからだ。

「増税の前にやる事があるだろう」との主張がある。全く正しい意見だ。国民に負担を求めるのだから、徹底的な歳出削減が求められる。
しかし「無駄を削ればお金はある。だから増税の必要はない」との誤ったメッセージで国民に誤解を与えてはいけない。10兆円規模の財源の捻出がそれ程簡単ではないということは、民主党の事業仕分けの結果を見ても明らかだ。

とは言え、社会保障給付の減額や消費税増税の議論に入るには、政府が身を削る姿勢なくして、国民の理解は得られないだろう。公務員給与の引き下げや議員定数の削減は喫緊の課題である。

にもかかわらず、国家公務員給与引き下げ法案は、与野党合意目前で継続審議となってしまい、人事院勧告に基づく引き下げも行われなかった。また、本格的な議員定数の削減は、一朝一夕には実現できないとしても、せめて、違憲状態を解消するための定数削減法案くらいは先の臨時国会で処理できたのではないか。
いずれも野田政権の大きな過失だが、今は失政を追求するよりも通常国会での早急な処理を望みたい。

加えて増税の環境整備として、景気の回復が求められる。
そのためには、当面の円高対策や景気の刺激策が重要だ。第4次補正予算や新年度予算の緊急経済対策も思い切ったものにしなければならない。
相手は30兆円とも言われるデフレギャップである。目先の財源論に予算規模を縛られていては、中途半端な効果しか得られないだろう。
持続可能な社会保障制度の確立という中長期的な課題と、短期的な経済対策を同じ土俵で論じるのは間違いだ。

社会保障制度のあり方や消費税を含む税制の方向性をはじめ、国会で議論すべき課題はいくらでもある。にも関らず、臨時国会は延長されることなく閉じられてしまった。

「法案成立のめどが立たないから国会を閉じる」のではなく「法案を成立させるために会期を延長する」のが筋ではないか。
政府与党が延長を求めず、すぐ国会を閉じてしまうのでは、「またしても、国会閉会による逃げ込みか?」と言われても仕方がない。

国会が閉会中でも、常任委員会等での審議は可能だ。
民主党には、法案提出前の非公式協議の呼びかけよりも、まずは党内の意見を集約し、開かれた場所での議論を期待する。

党首討論に思う

先週、野田政権初の党首討論が行われた。
首相と谷垣総裁の間で、消費増税やTPP交渉を巡り、表向きは激しい論戦が展開された。しかし、私としては、空回りのムダな議論という感が否めない。

首相は「消費増税の大綱素案ができた際には自民党も協議に応じろ」と言うばかりで、現時点でどう考えているのかを示さない。
一方の谷垣総裁も「マニフェストに反する行為=消費増税を行うなら国民に信を問うべき」との趣旨を繰り返すばかりで、自民党ならどうするかの政策案がない。
双方とも相手の欠点を突き、問いを繰り返すばかりで自らの主義主張が見えてこない。

我が自民党が主張すべきは、既に明確になっている。
2009年総選挙で「年金制度の抜本改革については、法律によって超党派の協議機関を早期に立ち上げます」と、昨年の参議院選挙でも「消費税は当面10%とし、全額を社会保障費に充当する財源とします。」とマニフェストに掲げている。
ということは、政府民主党からの協議呼びかけに応じるのは当然。むしろ、我が党の増税案を掲げ、民主党に政府案の早期取りまとめに向けた協議を呼びかけてもおかしくない。

一方の民主党の立場は、そう簡単ではない。
2009年のマニフェストでは、「消費税増税に全く言及することなく、無駄遣いの削減などで16.8兆円の財源を捻出できると主張し、途方もない巨費が必要な最低保障年金制度を構築する」と掲げていたのだから、「協議に応じて欲しい」と言うならまずはその撤回=放棄を宣言し、国民に謝罪すべきだろう。
現実を見る限り、野田政権の政策はことごとく自民・公明連立政権時代の政策に回帰しているのだから…。
とは言っても民主党内は一枚岩ではない。消費増税への反対意見も根強く残っている。まずは大網素案に向けて党内の意見集約ができるか否かが課題だろう。

「団塊の世代」(平成22~24年生まれ)は間もなく65歳に達する。来年から毎年250万人以上の高齢者が生まれるのだ。
今さらこの世代の年金支給額削減や先送りは困難だ。さすがに来年から削減しますとは言えまい。
しかし、この状態=現役世代の保険料と所得税が高齢者を支える仕組みを放置すれば、世代間の負担格差がどんどん拡大していく。
だからこそ、消費税の増税が急がれるのだ。消費税はすべての世代に公平に付加される税であり、世代内での支え合いの幅を広げることができる。

解散権は総理にあるのだから、谷垣総裁がいくら解散を求めても、総選挙には追い込めない。いづれにしても、マニフェストの評価は、次の総選挙で国民により必ず下される。
今為すべきは、解決が急がれる政治課題に迅速に対処することだ。解決のための原案を各党が持ち寄り、前向きの議論を行うことである。

特に社会保障制度や税制の基本構成は、短期的に方向転換が行われるようなものではない。政権交代にも耐えられる、長期安定的な制度と超党派の運営システムを設けるべきだろう。
とにかく今は、与野党が一丸となって制度設計を急がなくてはならない。そのために、麻生内閣の末期に「社会保障の財源確保のために、平成23年度までに税制の抜本的な改革を行う法的措置を講ずる」という趣旨を法定したのだから。(平成21年法律第13号改正所得税法附則第104条)

党首討論の正式名称は「国家基本政策委員会両院合同審査会」という。
本来は、毎週水曜日に開催されるもので、英国のクエスチョンタイムと同様、政策形成に向けた国会論戦を行う場であり、決して、政党間が足を引っ張り合う場ではない。
残り少ない臨時国会。党首討論に限らず、あらゆる質疑において、党利党略ではなく政策第一の王道の政治論戦を期待したい。