高等教育の機会均等を豪州HECSに見る

夏真っ盛りの8月、お盆の里帰りや長期休暇を利用しての海外旅行など、日本民族大移動の季節だ。国会議員にとっては盆踊りや花火大会など、俗に「田の草刈り」と呼ばれる地元活動にいそしむ時期でもある。そんな活動の合間に、同僚の下村博文、馳 浩(いずれも元文部科学大臣)議員と、高等教育費用負担制度の調査のためにオーストラリアへ出張してきた。

 

我が国では大学進学の経済的負担が、二人目三人目の子づくりをためらわせ、少子化の大きな原因になっていると分析されている。また、低所得者が大学進学をあきらめざるを得ず、それによる教育格差がさらなる経済格差を招くという悪循環をもたらしているとも言われる。こういった課題を解消するために政府・与党は今夏以降、教育の機会均等に向けて具体策の検討に入っている。

 

オーストラリアは、1989年に“高等教育拠出金制度(HECS:Higher Education Contribution Scheme)”を創設し、高等教育進学時および在籍中の費用負担がほとんどゼロとなるシステムを運営している。

今回の我々の調査は、この制度の設計者をはじめオーストラリアの政府関係者(教育省・国税庁職員・元閣僚等)から、この教育負担の詳細な制度設計、創設に至るプロセス等を学び、日本においても「進学を望む者は誰でも大学や専修学校に進む事ができる制度(機会均等)」を実現するためのものだ。

 

行き帰り夜行便の一泊四日というハードスケジュールではあったが、多くの方々との対話から貴重な知見を得ることができ、現地まで足を運んだ甲斐があった。

中でもHECS制度の計画者であるチャップマン・オーストラリア国立大学教授との面談は3時間に及んだ。導入時の社会背景や経緯を含め制度の基本的な考え方についてヒアリングを行い、理解を一層深めることができた。また、HECS導入時の主要閣僚の一人、現オーストラリア国立大学総長エヴァンス氏との会談では、導入時の政治的背景についても説明を受けることができた。

 

オーストラリアのHECSとは、簡単に言えば「連邦政府直営の出世払いの奨学金」である。大学の入学金や授業料などを政府が肩代わりして大学に全額支出してくれる。学生は、卒業後に年間所得が一定額(現在、54,000豪州ドル。約445万円)を越えてから、所得に応じて政府に返済を行うというもの。所得のチェックや返済は国税の納税システムに組み込まれている。

 

所得に応じて返済額が変動するという点では、日本の所得連動型奨学金と類似の制度であるが、豪州のHECSは「政府が大学に教育費を支出」しているのであって、「学生が政府に学費を借金」しているわけではない。つまり正確に言えば、学生は政府に「借金の返済」をするのではなく、受益の「費用弁償」をすることになる。故に学生本人が債務を負うことはなく、もちろん保証人を立てる必要もない。卒業生の責務は所得の範囲で可能な費用弁償を行うのみである。このため、経済的理由により進学を諦めることなく希望する全ての学生が大学に進学することができている。

 

日本は私立大学が多く学生の7割が在学していることや、HECS制度創設まではオーストラリアでは大学の授業料が無料であった(オーストラリアでは受益者負担強化の方向へ政策が進んでいる)ことなど、両国の置かれた状況に相違点はある。しかし、我が国が教育の機会均等への第一歩を踏み出すための有力な手段であることは間違いないと確信する。

 

すべての国民が大学進学を望むわけでもないし、その必要もないだろう。むしろ一人ひとりの才能に応じた多様な生き方こそが国民の幸せをもたらし、日本の繁栄を創造するに違いない。しかし、進学を望む者が、経済的理由で志を放棄するようなことはあってはならない。「教育の機会均等の実現」という最重要課題を早期に解決するために、今回の出張の成果を生かし、財源問題も含めて「日本型HECS」の制度設計を急ぎたい。

あれから10年

8月3日、内閣改造が行われ、第3次安倍第3次改造内閣が発足した。

今回の改造は、このところの内閣支持率の低下を回復する狙いも確かにあったとは思う。しかし、本筋は実務型の人選をすることで着実に実績をあげ、加計学園問題や森友学園問題、また国会審議における一部閣僚の不適切な答弁対応で失墜した信頼を回復するためと考えるべきだろう。

発足を受けての記者会見の冒頭で、安倍首相は国民から不信を招いたことを深く反省するとして陳謝するとともに、「原点にもう一度立ち返らなければならない」と述べ、経済再生をはじめ、政策課題で結果を出すことで信頼回復に努める考えを強調した。

そのうえで新しい内閣について「党内の幅広い人材を糾合し、仕事に専念できるしっかりと結果を出せる体制を整えることができた」と言及、新内閣を『仕事人内閣』と命名した。

一般的に閣僚の適齢期(入閣の有資格者基準)と言われているのは衆議院議員で当選5回以上、参議院議員で3回以上とされているが、自民党内の入閣待機組は60人を超える。

内閣改造が行われるということで、期待をしていた議員も数多くあっただろう。結果的に今回の改造で新入閣を果たしたのは6人だけと、これまでの組閣と比べて少人数となった。

適齢期が訪れると選挙区の支持者の間に入閣の期待が広がる。ましてや新聞等の事前予想で名前が取りざたされると、支持者の期待は一層大きくなり、議員にはそれが大きなプレッシャーとなる。

今の季節、日本全国で夏祭りが行われ盆踊りや花火大会が開催される。数多くの方々が参加される会場への挨拶廻りは毎年恒例の議員活動である。7月のG20のあと、8月上旬に内閣改造する旨の発表がなされてから組閣当日まで、適齢期の議員にとってはさぞかし悩ましい日々であったことだろう。

私の初入閣は、今から10年前の平成19年9月のことだった。第一次安倍内閣が総理の突然の辞任表明により、福田康夫内閣にバトンタッチした際のことだ。ほとんどの閣僚は一か月前に改造したばかりの安倍内閣からの留任となったが、数少ない2つの空席ポスト、防衛大臣と文部科学大臣に石破 茂氏と私が就任した。

当時私は政調会長代理に就任して一か月も経っていなかった。今は複数となっているが、当時は政調会長代理のポストは1人だけ。しかも大変人気のあった重要なポストで、私としても張りきっていただけに短期間で終わるのは非常に残念だった。

内閣改造の前には、まず党の三役(今は選挙対策委員長を含む四役)が決まる。

政調会長が石原伸晃氏から谷垣貞一氏に代わり、私のポストを空けて欲しいと谷垣会長から要請されたのだが、「私からは辞任はしないので、どうしてもと言うのなら首を切ったらいい」と、谷垣氏を困らせた記憶がある。

そんな時、当時の派閥(近未来政治研究会)の会長であった山崎 拓氏から、官邸から入閣の連絡があるので「受けて欲しい」と電話があった。

政調会長代理のポストに未練があったし、同じ派閥に私より当選回数の多いのに未入閣の同僚議員がいたこもあったので一度は辞退した。しかし、山崎会長から「渡海さん、こう言う話は一度断ると今度いつ来るか分からないので、話が来た時には素直に受けた方が良い」と、アドバイスを受けたことを今も鮮明に覚えている。あの時に固辞していたら、未だに待機組の一人としてこの夏を悩ましい思いで過ごしていたかもしれない。

10年前の夏は大臣就任直後から「沖縄集団自決の記述についての教科書検定問題」で忙殺され、お祝いを受けて喜んでいる間もなかった。それでも、就任後初めての“お国入り”の際、自宅前で200人以上もの地元後援会婦人部の皆さんの大きな拍手で迎えられた時、我がことの様に喜んでくれる姿を目の当りにしてお礼の挨拶で言葉に詰まった。この時は大臣になって良かったと心から実感したものだ。

今、安倍内閣は発足以来最大の正念場を迎えている。内政・外交・安全保障上の課題が山積するなか国民の信頼を取り戻し、政策を着実に実行しなければならない。

今回初入閣された方々に、まずはお祝いを申し上げるが、喜びに浸るのはほどほどに、常に緊張感を持って難局に対応し、政治の信頼回復を実現して欲しいと心から願っている。