国会事故調 報告書

東日本大震災から早や1年3ヵ月。被災地では、未だに34万人以上の方々が避難生活を強いられている。特に、福島第一原発周辺に住まわれていた方々にとっては、郷土の復興に全く先行きの見えない毎日が続いている。先祖から受け継ぎ、永年慣れ親しんだ故郷を瞬時にして奪ってしまったこの事態に、原子力災害の深刻さを思わずにはいられない。

先週5日、国会の福島原子力発電所事故調査委員会(黒川清委員長)が最終報告書をとりまとめた。これで、政府、東電、民間、国会の4つの事故調査委員会の報告が出そろったことになる(政府は中間報告)。
今回の報告書は、4つの報告の中で最も厳しく東電と政府の対応を糾弾しており、事故は想定外の「自然災害」ではなく、震災へのリスクを認識しながらも対策を先送りしてきたことによる「人災」だと結論づけている。

つまり、東電も政府も、福島第一原発は、地震・津波に耐える保障が無い脆弱な状態にあることを知りながら、政府が原発の安全性を高める規制を導入しようとすると東電はその先送りと基準の軟化を働きかけ、政府もそれを黙認してきたとの批判だ。
そして、こういった「なれあい」とも言える関係は、東電側が情報を独占し、専門性でも規制官庁よりも優位に立っていたことに起因し、「規制当局は電力事業者の『虜』になっていた」と説明した。

規制する側とされる側が逆転したような、この不適切な関係は、永年、原子力政策を推進してきた自民党の責任でもあり、深く反省しなくてはならない。
だからこそ我が党は、新たな原子力規制組織は内閣から独立した地位を有する委員会であるべきと主張し、民主党もこの案を受け入れ、原子力規制委員会が9月に設置されることとなった。原発再稼働の混乱を収束させるためにも、早期に委員人選を進め、一日も早く新たな安全基準が示されることを望む。

もう一つ、今回の報告で注目すべき点は、地震動により重要機器の損傷が生じた可能性を示したことである。これまでの見解では、いずれも揺れによる機器破損を否定し、事故の直接的な原因は想定外の巨大津波による浸水に限定してきた。
しかし今回、津波の到達時間などを検証した結果、少なくとも1号機の非常用電源の喪失は津波によるものではない可能性があると指摘した。事実確認にはさらなる検証が必要としているが、仮に事実であれば、古い耐震基準に沿って建設された原子炉の耐震安全性を直ちに再チェックしなくてはいけない。

さらに事故直後の初動対応では、首相官邸から現地事務所への直接的な介入が「現場対応の重要な時間を無駄にするだけでなく、指揮命令系統の混乱を拡大した」様を明らかにした。海水注入をめぐる「止めろ」「何でですか」「うるせえ。官邸がもう、グジグジ言ってんだよ」という発言録はその代表だ。
3月12日の首相による現地視察も「現場の士気を鼓舞したというよりも、自己のいら立ちをぶつけることで、むしろ現場にプレッシャーを与えた可能性もある」との見解だ。

菅前首相は「官邸の事故対応に対する評価や東電の撤退をめぐる問題など、いくつかの点について私の理解とは異なる」と発表したようだ。自己の行動を正当化したい気持ちは分からないではない。しかし官邸も東電もシビアアクシデントに対する備えが無かったことは事実であり、報告書はそれを指摘しているにすぎない。

今回の報告を持って事故の真相が解明されたわけではないし、検証が終わったわけでもない。報告書も提言しているように、今後も独立した第三者によって厳しく監視検証されるべきである。
フクシマ後の日本のエネルギー戦略は未だに定まっていない。しかし、安定供給と経済コストを考えればただちに原子力を放棄するという選択肢は考えにくい。一方で、福島第一原発の災禍を踏まえ、万全の安全性を確保しなくては原子力の未来が拓けないことも事実だ。

事故原因の真相究明と安全対策の確立、それに万が一の事態への備えは、今後の原子力エネルギー利用の必須条件なのだ。
我々は大自然の前に、絶対的な安全は存在しないということを学んだ。しかし、リスクにひるんで立ち止まっていては、人類の未来は拓けない。
フクシマの検証を10年かけても20年かけても明らかにし、世界のエネルギー政策に貢献すること。それが、東電に、政府に、そして日本の科学技術政策に科せられた責務である。