総理の発言

先週フランスでG8首脳会議(ドービル・サミット)が開催された。
今回のサミットでは、緊急的に原子力の安全問題が議題に追加され、菅首相は異例の取り扱いと言える冒頭スピーチの機会を与えられた。
原子力政策のあり方、世界のエネルギー政策を語り、首脳会議の議論をリードするチャンスを得たのだ。

世界のエネルギー情勢を考えてみよう。
経済成長を続ける新興国は、旺盛なエネルギー消費国でもあり、成長に不可欠なエネルギーの確保は喫緊の課題だ。一方で、チュニジアの革命活動に端を発する中東、北アフリカ産油国の政情不安(今回のサミットの本命議題)もあり、化石燃料の価格は高騰している。
電力不足で苦しんでいるのは、東電、日本だけではない。目覚ましい経済成長を続けているお隣の中国でも電力不足に陥っているのだ。そして、その解決方法の最右翼は原子力だ。

100基以上の原発を有するアメリカ、発電量の約8割を原子力で担うフランスのみでなく、世界各国が原子力の利用無くしてはエネルギー需要をまかなえない状況にある。ドイツが原発撤廃を宣言できたのも、いざとなればフランスから電気を購入できるという環境にあるからだ。もちろん長期的には再生可能エネルギーの利用拡大は必要だろう、しかし今必要なのは原子力発電の安全性確保だ。

という状況の中、先進各国が日本に期待したのは、「フクシマ事故によって失われた原子力の安全性の回復」。すぐには回復できないとしても、事故原因の究明、検証を通じて、「将来に向けた安全技術確立」を強く語ることだろう。

さて、菅首相のスピーチはどのような内容だったか?
報道によると、事故情報の提供と検証結果の公開など、通り一遍の言葉のあと、「日本は2020年代の早期に自然エネルギーの割合を20%にする」との内政方針を打ち出してしまい、長々と太陽電池の発電コストの引き下げについて力説したとのこと。
これは、「日本は危険な原子力から逃げる」と受け止められても仕方があい。

各国にとって、数十年先の日本の自然エネルギー比率がどうなろうと関係ない。しかも、裏付けのない思いつきの数値目標では、議論のしようもない。
結果、サミットの討議の中心は、欧州における債務超過国の問題となった。当然のことながら、超債務大国への道を突き進みつつある我が国の総理は、この話題に関して一言も発言できなかったようだ。

首脳宣言には、原子力安全について「IAEA(国際原子力機関)を中心に安全性を確保するための新基準を策定すること」が盛り込まれたものの、日本はサミットをリードする機会を逸してしまったと言えるだろう。いや、足を引っ張ってしまったのかもしれない。

しかも、原子力プラントの輸出は、我が国の経済成長を牽引する分野の一つであったはずだ。今回の発言は、日本がフランスやロシアとの国際受注獲得競争から撤退することを宣言したようなものだ。

何も自然エネルギー20%を目指すことを否定しているのではない。「太陽電池パネルを1000万戸の住宅に設置」できたら素晴らしい。しかし、あの場で発言する内容ではない。
そして、一国の総理が発言する国策であれば、しっかりと議論を尽くして、実現への手法を確立した上で、表明するのが筋だろう。
ところが、今回の発言案の作業は一部のスタッフだけで検討され、事前に与党内や政府内の調整は一切行われなかったらしい。エネルギー政策を所管する経済産業大臣との協議もなしで、政策目標を国際会議で表明するような行為は、国政を私物化するものだ。

そう言えば、鳩山前首相も就任直後の国連演説で、国内で議論が熟さない「CO2の25%削減」を宣言してしまった。そのつじつま合わせのために、原子力発電比率を50%に引き上げた計画もあったように記憶しているが、これはどうするのだろう???

政権交代から既に1年9ヶ月が過ぎようとしている。民主党がこれからも政権を維持したいのであれば、せめて、首相の発言の重みくらいは学んでもらいたいものだ。

最近の永田町

今国会の会期末は6月22日、あと1ヵ月の審議期間が残されているというのに、早や会期延長の話題で永田町が騒がしい。
菅総理周辺に「(自己防衛のために)国会を早く閉じたい」という空気が漂っているからだ。議論すべき課題は山積しているのに、何故、通常国会を会期末で閉じようとするか…。全く理解できない。

23年度の赤字国債発行を認める特例公債法案をはじめ、多数の重要法案の審議が震災対応のため先送りされてきた。1ヶ月ですべての法案審議が尽くされるとはとても思えない。

被災地支援にしても、当面の生活支援や復旧に対応する第1次補正予算こそ成立したが、一日も早い復興に向けてさらなる予算措置や特例制度の創設が必要だ。
日々刻々と変化する被災地の実情に迅速かつ的確に対応するためにも、国会は臨戦態勢を維持しておくべきだろう。先行きの見えない避難所生活を強いられている方々に、「6月で国会を閉じる」などという論は通用しない。

被災地の復興のみならず、原発事故の検証や今後のエネルギー政策のあり方についても、早急に議論しなくてはならない。
デフレ対策や経済成長戦略の構築も必要だ。本来であれば、6月中にはTPPへの対応も決定するはずだった。

間もなく取りまとめられる社会保障制度と税制の一体改革案についても、二次補正も含め復興財源の根幹とも関わるのであれば、即座にその是非について審議をスタートさせるのが筋だろう。
震災前に行われていた度重なる総理の協力要請は、言葉だけのパフォーマンスだったのか?

そういえば昨年の今頃も、鳩山→菅と内閣が代わったにもかかわらず、参議院選挙を有利に戦うためか、予算委員会も開催することなく一方的に国会を閉じてしまった。
一部で報道されているように、政権延命のために会期延長はしないということなら、言語道断、無責任極まりないと言わざるを得ない。

大震災の発災以来、鳴りをひそめていた菅総理の退陣論も、再び顕在化し始めている。
先週には西岡参議院議長までもが「菅総理をG8サミットに出席させるわけにはいかない」と激しい退陣論を表明した。

普通であれば、このような国家非常事態の折りに、誰も政局騒ぎで時を費やすことは望まないだろう。にもかかわらず、与野党を問わず多方面から退陣を迫られる理由を、総理はどの様に受け止めているのだろうか?

「一生懸命やっている」と総理は言うが、先週各メディアが行った世論調査でも、内閣支持率は低迷を続けている。言葉だけで「野党の皆さんにも協力をお願いしたい」とくり返すだけでは何事も進展しない。

総理は、寄せられる批判をもっと謙虚に受け止め、自らにもその原因があると反省し、誠意のある協力要請をなすべきである。
どうしてもその発想に立てないのなら、貴方は「歩く風評被害」と言われても仕方ない。貴方が一刻も早く退陣を決意することが、救国への第一歩となるだろう。

和顔愛語

東日本大震災直後、企業のCM自粛を受けて、テレビやラジオで繰り返し流されたのが、ACジャパン(旧公共広告機構)のメッセージ。
余りの回数の多さに、放送局には苦情まで寄せられたらしいが、なかなか味のある作品がそろっていた。

言葉のやりとりを山彦に例えた、金子みすずの詩「こだまでしょうか」
挨拶から友だちの輪が広がる様で、こどもに挨拶励行を訴える「あいさつの魔法」。
引退後も車椅子の寄贈を続ける元盗塁王:赤星さんの「ボランティアは生涯現役」。
脳卒中時の対応のスピードの大切さをサッカーに例える「オシムの言葉」。

なかでも、私の一番のお気に入りは、思いやりの気持ちを行為に移すことの大切さを唱える「見える気持ちに」。

「こころ」は誰にも見えないけれど
「こころづかい」は見える
「思い」は見えないけれど
「思いやり」は誰にも見える

これは宮沢章二さんの「行為の意味」~青春前期の君たちに~と題する詩、中学生に向けて綴った77のメッセージの一節だ。
温かい心も、やさしい思いも、人に対する積極的な“行為”となることで、目に見えるものとなり、それこそが人が美しく生きることだ、と説く。

どんなに美味しい晩ご飯でも、「おいしかった、ごちそうさま」の一言が無くては、妻への感謝は伝わらない。難しい顔をして食べていたのでは、食卓の雰囲気も暗くなる。
仏教でも、「無財の布施」(=財産が無くても行える善行)として、「和顔愛語(わげんあいご)」の大切さを説いている。なごやかで穏やかな顔つきで人に接し、優しい思いやりのある言葉をかけることだ。
私たちは古来、人と人との絆、思いやりを重んじる文化のなかで命のリレーを続けてきた。
人を思いやる遺伝子は、そう簡単に損なわれるはずはない。

現代社会では、行き過ぎた個人主義により、ともすれば、自分さえ良ければいいという振る舞いが見られることもある。
しかし、一方で、被災地でボランティア活動に汗を流す数多くの若者の姿を見るにつけ、日本人も捨てたものではない、これぞ日本人らしさの発露だという思いを強くしている。
相手の立場を尊重し、他者を大切にする心で接すること。そしてお互いの思いやりに感謝する言葉のやりとり。成熟社会への針路は、そのような行為の積み重ねからこそ、描き上げることができる。

危機に際してのボランティア精神を日常生活でも発揮することができれば、多少、年金給付額が抑制されようとも、子ども手当てが減額されようとも、こころ豊かな生活を営むことができるだろう。
わずか半世紀ほど前、日本の国民所得は今の50分の1。家族や地域の絆のなかで、互いに支え合って暮らしてきたのだから。

いずれにしても、大切なのは他者を思いやる心をもった人材を育てること、“道徳”教育の重要性を再認識することだ。ACのCMに頼らなくても、私たち大人の日々の実践行動で、子どもたちの健全な心を育まなくてはならない。

原発事故調査会

一時期、ニュースのヘッドラインを独占していた福島第一原発をめぐる報道も、やや落ち着きが見られるよう思える。
もちろん、退避生活を強いられている方々の住宅確保や農水産業をはじめとする損失補償の早期支払いなど、課題は山積しているものの、原発自体は目下のところ安定的にコントロールされており、収束に向けての工程表(努力目標ではあるが…)も発表された。

そんな中、政府は、5月中旬にも事故調査委員会を設置する意向を表明した。
事故の収拾が最優先の課題であることに変りはないが、再発を防ぐための検証も急がなければならない。先延ばしすると、必要な情報が失われる恐れもある。
現場の作業に支障をきたさないよう配慮しながら、並行して検証に必要な情報収集を行うことは可能だ。

5月26・27日にはフランスで主要8ヵ国(G8)首脳会議が、6月20日からは国際原子力機関(IAEA)の閣僚会議も予定されている。
事故発生以来、内外から「日本政府の情報発信は不充分」とのそしりを受けている。これらの会議でも、福島第一原発の現状と収束の見通しはもちろん、事故原因についても情報開示を求められることは必至だ。
むしろ、我が国の名誉挽回の絶好の機会とし、積極的な情報提供により信頼回復を果たすべきだろう。

設置予定の事故調査委員会には、当然ながら独立性と透明性が求められる。
今回の事案では、電力会社の活動を直接規制する官庁である「原子力安全・保安院」はおろか、中立的な立場で保安院等の行為をチェックすべき「原子力安全委員会」までもが、検証の対象と言える。調査委員会はこれらの政府組織から独立した公正の判断ができる第三者機関としなければならない。

原子力に詳しい専門家の多くは、なんらかの形で電力会社や保安院、安全委員会などに関わってきた。それだけに委員の人選は難しいようにも考えられるが、検証作業には必ずしも専門家が必要という訳でもない。
米国のスリーマイルアイランド原発事故の原因を総合的に徹底調査するために設置された「TMI事故に関する大統領委員会」(通称ケメニー委員会)が大いに参考になるだろう。
この委員会は、ダートマス大学総長のケメニー博士(専門:インターネットサイエンス)を委員長とし、学界・労働界・地方自治体の代表者及び住民代表(主婦)から選出された12名の委員から構成されている。原子力の専門家は1人しか入っていない。

今回の調査委員会も、津波によって原発に何が起こり、その後どういう対処が為されたかの客観的な分析が重要である。特定分野の専門家の知見が必要な部分があれば、参考人として意見を求めれば良い。

検証作業の結果が世界中の原子力政策に影響を与える以上、国際的に開かれたプロセスも必須だ。IAEAなどの国際機関の参画を求めたり、検証結果について国際的な評価を受けたりすることも考えなければならないだろう。

とにかく、政府は国際社会が「フクシマ」に視線を注いでいることを忘れてはならない。
思いつきのごとく唐突に原発操業停止要請を発するのではなく、守るべき公益と私権制限の影響を熟慮し、論理的、客観的な根拠の下に必要な措置を講ずるべきであろう。

そのためにも、スピード感を持って検証作業を進め、正確な現状報告とデーターの開示を行って欲しい。
被災地の方々に安心をもたらし、世界のエネルギー政策の明日を拓く、そんな検証活動と成果を期待したい。

統一地方選をふり返って

4年に一度の統一地方選挙が終わった
とはいっても、東日本大震災により一部の被災地では選挙が延期され、また、他の地域でも被災者への配慮から街頭演説や選挙カーの活動を控えるなど、自粛ムード一色の異例の選挙戦となった。
そして、その結果を見ると、民主党の不振を強調される報道が目立ったが、かといって我が自民党が躍進した訳でもない。

確かに、民主・自民両党が対決した東京、北海道、三重の3知事選挙では民主党系候補が全敗し、道府議会選挙や政令都市の選挙でも、民主の党勢は拡大しなかった。
後半戦の市区町村選挙でも、直接対決型の10市区長選挙で、民主は3勝7敗の大幅な負け越しだ。
このほか候補者の擁立もできず、不戦敗に終わっている例も多い。いわば国政与党の失政に足を引っ張られる形で、全国的に民主党の名では浮動票が獲得できない状況にあったといえる。

一方、このような民主自滅状態にもかかわらず、自民党は前回勢力をほぼ維持した程度にとどまった。ひいき目に見れば、今後の政権戦略に一定の道筋をつけたとも言えるが、必ずしも国民の自民支持が回復したと自信をもてる結果ではない。
むしろ、自民や民主といった既成政党への失望感が広まっているのかもしれない。

その証拠の一つが地域政党の隆盛だ。
橋下大阪府知事が率いる「大阪維新の会」は府議会で過半数を獲得、大阪・堺市議会でも第一党へと躍進した。吹田市長選でも維新の会新人が現職を破り、キャッチフレーズの「大阪都構想」の実現間近(?)の勢いである。
中部圏では、2月の愛知県知事選挙、名古屋市長選挙で、川村名古屋市長の「減税日本」が旋風を巻き起こした。(ただし、今回の統一選挙では無理な“減税”という化けの皮がはがれた形で伸び悩み。)

成熟社会の国民ニーズは多様かつ複雑だ。高度成長期のような効率重視の全国画一的政策では応じきれない。自ずと地方自治の重要性が高まり、中央政府と地方政府の役割が分立してくるだろう。
その際に、国政を担う政党と地方政治を担う政党が同一である必要性はない。むしろ、地域ごとに個性ある主張を唱える政党が林立し、特色あるまちづくりを進める動きは、地方の自立・独立の時代にふさわしい姿かもしれない。

しかし、個人的な人気に過度に依存した政党、減税といった大衆迎合的公約のみの政党というのは、ちょっと考えものだ。
さらに、既成政党への失望や政治不信が、地域政党の人気につながっているという現状もいただけない。

政党たるもの、本来、確とした政策理念を綱領として掲げ、その下に志を同じくする者が集うべきものだ。民主党のように綱領もなく、選挙で当選することを目的に集まった烏合の衆では、やがて党内抗争により自滅するのは目に見えている。

一方、我が自民党は、昨年綱領を改変し、「健全な保守政党」として出直しを図っている。勤勉を美徳とする、自立を誇りとする、家族や地域の絆を持つ、公への貢献と義務を果たす、等々の方針を掲げ、「日本らしい日本の確立」の実現をめざしている。
しかし、まだまだ、この立党の理念が党員、国民に浸透しているとは言いがたい。より、かみ砕いた言葉と、具体的な政策提案による情報発信が求められる。

明日、5月3日は憲法記念日。国家のあるべき姿を描き、国民に示すことは政治家、政党の大きな役割だ。地方自治のあり方も含めて、国のかたちを大いに論じ、「日本らしい日本の姿を示し、世界に貢献できる新憲法の制定」をめざして行かなくてはならない。