8月15日

68回目の終戦記念日となった昨日の8月15日、日本武道館で挙行された戦没者追悼式に参列した。遺族以外の参列者は、総理大臣、衆参両議院議長、最高裁判所長官、各国務大臣、国会議員、都道府県知事・議長などに限られるから、私としては4年ぶりに参列がかなったということになる。

先の戦争でひたすら国家と家族の安寧を願い敵弾に倒れ散華された尊い命、また、空襲の犠牲となって尊い命を失われた多くの国民に哀悼の意を表するのは、日本人として当然のことであり、政治家としての責務だと考えている。
だから私は国政に携わる身となってから、参列資格がある限り(=国会に議席を有する限り)、この式典に必ず出席してきた。

今でこそ「日本人として当然」などと偉そうなことを言ってはいるが、正直に告白するとサラリーマン時代の私は、8月15日を今ほどの特別な思いで迎えてはいなかったと思う。
しかし、日本の舵取り一端を担う立場となれば、その日の重みは大きく増す。国益を守る最終手段とも言える「戦争」、敵味方を問わず数多くの犠牲者が避けられない「戦争」、その行為を始めるのも終えるのも政治の責任だ。先の戦争では310万人もの国民の命が失われた。今日の日本の繁栄は、その政治決断の結果による尊い犠牲の上に成り立っていることを忘れてはならない。

今さら当時の政治家の責任を問うているのではない、すべては結果論である。
列強各国が軍事力を背景とした帝国主義に走り、領土拡張を目指していた20世紀初頭。日本の力でアジアを米英仏蘭から解放し、大東亜共栄圏を構築するため、戦争を“国是”とする大きな歴史の流れが、日本を飲み込んで行ったのは事実だ。

ある番組のインタビューで、終戦当時20歳だった女性が許婚を戦場に送り出した時を振り返り、「当時は国全体が戦うのは当然と考えていた。そんな時代だったから彼は何の疑問も持たず旅立ったし、そんな彼を私も静かに見送った」と答えておられた。
大学を繰上げ卒業し陸軍主計少尉として大陸へ渡った父も、「国全体が戦争に向かって一丸となっている時、戦地へ赴くことに何の疑問も持たなかった」と語っていたが…。
一般国民としては、それがごく普通の考え方だったのだろう。

ただ、その歴史の流れを創るのも人なのだ。

米英から石油の輸出を止められては、武力で応じざるを得なかったのかもしれない。一方で、独伊ではなくソ連と組み、粘り強く交渉すれば活路が見いだせたかもしれない。
開戦は避けられなかったとしても、終戦をもっと早く決断していれば、空襲による犠牲は少なくてすんだかもしれない。

逆に、あの時点で、8月15日で、戦いを終えていなければ、本土決戦の美名のもとに日本国は完全に消滅していた可能性もある。
その時々の国政課題への決断を行うのが政治の役割である。その結果は、日本の針路を定めることになり、国民生活の将来を左右することになる。

さて、先日行われた参議院選挙で“衆参のねじれ現象”は解消された。安倍政権の支持率も依然として高い。しかし、消費税、TPP、社会保障改革など行く手には多くの困難な課題が山積している。

「今この国の為に何ができるか?」「何を為すべきか?」
この国の歴史を振り返り、先人の思いを顧み、未来を担う子どもたちの将来にも心を馳せ、「未来への責任」を果たしていきたい。
「8月15日」を意味ある記念日にするためにも。

ゲリラ豪雨

昨夜(8月4日)地元の加古川で開催された花火大会、一昨日のみなと神戸花火大会は、ともに無事に開催され大勢の見物客で賑わったが、今年は全国各地で打ち上げ直前直後の花火大会中止が相次いでいる。犯人はゲリラ豪雨だ。
突如として黒雲が広がり、バケツをひっくり返したような土砂降りに見舞われ、30分もすると何事もなかったように晴天が戻る。そんな熱帯のスコールを思わせる、局地集中豪雨が多発している。

花火の中止はまだしも、災害につながる例も数多い。神戸の都賀川では5年前、数分のうちに急増水した激流が河川敷でバーベキューを楽しむ人々を飲み込んだ。先月末、山口、島根をおそった集中豪雨は、1日で1ヶ月分の雨を降らせ、多くの浸水被害を引き起こした。被災された方々に、心からお見舞いを申しあげる。

ゲリラ豪雨に限らず、九州南部や奄美諸島の異常小雨、東北の長梅雨と低気温、連日35℃を超える太平洋側の猛暑等々、経験したことがない気象現象が増加している。個人的な感覚からしても、地球の温暖化が進み、日本が熱帯化しつつあるのは事実かも知れない?
しかし、「観測史上最高の」「経験したことがない」と言ったところで、その物差しは我々人類の歴史が始まってからのこと、地球自体が経験してきた歴史や経験ではない。誕生以来45億年以上の地球史では赤道も含めて地球全体が凍結したり、マントルの大量噴出(スーパープルーム)で生物がほとんど絶滅したこともある。

地球はこの数百万年の間、約10万年単位で氷期と間氷期を繰り返しており、現在は間氷期にあるという。氷期には世界の気温は6~7℃低下し、氷河がカナダや中国北部まで拡大する。その一方で、世界中の海面は100メートル規模で下がり、北海道はシベリアと陸続きになるのだ。
これに対して、人類の歴史は未だに20万年程度、文字を使いこなす四大文明が始まってからはわずか五千年ほどである。地球の大きな気候変動を体感したとはとても言えない。

我々人類がいかにして地球環境の変化に対処するか。
まず、短期的な自然災害対策だが、一つは、従来型のハード中心の国土強靱化だろう。河川堤防や岸壁の強化で氾濫を防ぎ、砂防ダムで土砂崩れを止める。都市部では雨水の一部貯留施設(地下タンクや校庭貯留)を整備し、舗装の透水化を進める。まだまだ公共事業の役割は大きい。
二つ目はソフト面の強靱化。強靱化は英語では「resilience」としている。弾力性、柔軟性の意味だ。直撃をかわすしなやかさ、被災した場合も復元力を高めなければならない。地域全体の安全性を高め、有事の復旧復興計画や支援協定を被災前に設定しておくことも有効だろう。

一時あれ程熱心に議論された地球温暖化対策は、福島の原発事故以来エネルギー確保の問題に心を奪われ、忘れられた感があるが再強化に取り組まなければならない。要するに急激な気温上昇を避けるための努力だが、具体的には化石燃料の消費量を減らしていくしかない。この意味において、原発がほとんど休止し、旧式の石油、石炭火力発電所がフル稼働している現状は最悪といえる。京都議定書で定めた1990年比6%削減が達成できないどころか、排出量が増加してしまう可能性もあるのではないだろうか。バランスのとれたエネルギー戦略を早急に定めるとともに、国民一人ひとりが最大限の省エネ努力を行うことが肝要だ。

さらには超長期的には地球の変化に逆らわず、順応することだ。(ここからは半ば仮定と空想の世界ではあるが・・・)
直近の氷期は1万年前に終わったばかりという。つまり10万年単位の変化のサイクルから言えば、今後数万年は地球は温暖化に向かう可能性が高いと思われる。と言うことは、海面上昇や熱帯化に備えて、高台へ、北部へと移住することが、今後の都市計画のポイントかもしれない?

8月に入り、これから一年で最も暑い時期を迎える。気象庁の長期予報では全国的に晴れる日が多く、平年を上回る暑い日が続くといわれている。巷では千年に一度の暑さという予想もある。
まだ暫くは我慢の日々が続きそうだ…。

日本人は「春・夏・秋・冬」、列島の四季の移ろいに寄り添い、美しい自然と共生するなかで歴史と素晴らしい文化を育んできた。しかし異常気象の前には、この文化も廃れざるを得ないのか?
いや、日本の長い歴史の中で根づいた季節の文化を守っていくために、我々は最大限の努力を惜しんではならない。