フラッシュバック

“逃亡犯条例”改正案をめぐり香港で100万人規模のデモが行なわれたのは6月9日。香港政府は改正の無期限延期を決定したが、あくまで「完全撤回」を要求する市民グループのデモ参加者は、16日には9日の倍の約200万人となった。香港の人口は750万人なので、実に4人に1人がデモに参加した計算になる。

7月1日には返還22周年記念式典会場で警察とデモ隊が激しく衝突、7月末からは香港国際空港でも座り込みなどの抗議活動も実施された。8月13日には発着便400便以上が欠航するなど、観光客が大混乱に陥った模様がTVで連日放映されたことは記憶に新しい。
中国当局は空港機能のマヒを受けて、隣の深圳市に人民武装警察部隊を集結させている。抗議活動がより先鋭化、大規模化していけば、「第2の天安門」の懸念を想起させる。

“一国二制度”に基づく高度な自治を守り抜く、とりわけ正義と自由をスローガンに司法の独立を訴える抗議活動は、学生を中心とした若者が担っている。
TVから繰り返し流される映像を観て、自らの学生時代にフラッシュバックした感覚が脳裏に甦った。

私の学生時代は学生運動全盛期?であった。
1965年(昭和40年)暮れから学費値上げをめぐって第1次早稲田闘争が勃発。
私が受験した翌66年の入学試験は、学生たちが校舎から持ち出した机と椅子で築かれたバリケードの中で行なわれ、闘争のあおりを受けて入学式は5月1日となった。
当時は全国各地で次々と大学紛争が勃発し、特に首都圏の各所で警察と学生が対峙して激しい闘争が繰り広げられた。学生はヘルメットに手拭いによるマスク、ゲバ棒が一般的なスタイルであった。

紛争の極めつけは、1968年(昭和43年)から翌年にかけての東大紛争だ。
医学部生がインターン制度の改正に反対して無期限ストに突入。学生と大学当局の衝突を機に紛争は全学に広がった。総長の要請により警視庁の機動隊が出動するなど、抗争はますますエスカレート。この混乱した情勢の中で、1968年12月に文部省(当時)が東大入試の中止を決定する。
安田講堂を占拠した学生たちはバリケードにより建物を内部から完全封鎖して立て籠もり、警視庁が強制的に封鎖解除する事態に至る。世にいう東大安田講堂事件である。

学生運動が当たり前であったあの時代。全国あらゆる大学キャンパスは立て看板であふれていた。バリケードに囲まれた構内で、熱く日本の将来について語り合った時代!
香港の若者達の報道を見て、そんな時代の思い出、雰囲気が甦ってきたと同時に、今の我が国にはみられなくなった国家のエネルギーを感じずにはいられなかった。

各種世論調査によると、今の政権の支持率も自民党の支持率も10代から20代にかけて非常に高い。その理由は定かでないが、国家の未来を担う若者達の現状肯定的な傾向に、私はいささか疑問を持っている。

未来の社会を創る若者は高い志とチャレンジ精神を持ってほしい。しかしながら、我が国の子どもたちの意識構造は、諸外国と比べあまり芳しいものではない。政府の調査によると、①自己を肯定的に捉えていない割合が低い、②自己の将来に明るい希望を持っていない、③社会問題への関与や社会参加について相対的に低い等々の結果が出ている。日本の将来に不安を感じるのは私だけだろうか。

日本と香港では政治情況や民主主義の在り方も全く違う。だが、自らの国家の未来を若い世代が行動することで切り拓こうとしている姿には共感を覚える。暴力的な抗議活動を是認するつもりはないが、いつの世も社会を変革するのは”若い力“である。
日本の社会は停滞しているとも言われるが、日本の若者にももう少し改革志向が欲しいと思いながら、香港の報道を観ている今日この頃である。

ゲバ‐ぼう【ゲバ棒】
《「ゲバ」は「ゲバルト」の略》学生運動で、デモや闘争の際に武器として使用される角材。

タレント議員の今昔

参議院通常選挙が終了し、8月1日から5日まで臨時国会が開かれた。臨時国会の主な目的は、新しい参院議長を選出すること。新天皇ご臨席のもと開会式が行われ、先立つ本会議で選出された山東昭子新議長が陛下退出時の先導役も務めた。

参院議長に就任した山東昭子議員は今回の選挙で当選8回、既に42年に亘って議員生活を続けている。自民党の比例代表選挙における定年には抵触しているが、前回に引き続き特例扱いで立候補されていた。

特定の組織を持たない彼女にとって今回の当選順位は19人中18位と厳しい結果ではあったが、8回目の栄冠を見事に勝ちとられた。選挙中から今回の立候補の動機は議長であると言われていたが、他の有力候補の落選もあり、異論もなくスンナリと決まったようだ。
女性の社会進出が遅れている日本にあって特に遅れているのが政治の世界である。山東新議長のこれからの活躍を大いに期待したいと思う。

山東議員といえば、初出馬以前は女優であったことを知る人も多いだろう。いわゆる「タレント議員」のさきがけの一人である(勿論、彼女のこれまでの議員活動の実績からすれば、何ら問題とはならないのだが)。

知名度が選挙に有利に働くことを利用して政治家になった議員を一括して「タレント議員」と言うようだが、知名度を産み出したタレント性は議員によって千差万別である。中には「タレント議員」という呼称を良しとしない政治家もいる。石原慎太郎氏や舛添要一氏は立候補時に抜群の知名度を誇ったが、彼らをタレント議員と称したら“大変失礼”なことになる。
「タレント議員」という表現は、人気稼業(芸能人やスポーツ選手)出身者に限定すべきなのだろう。

作家や芸能人など、高い知名度を持つ議員は帝国議会創設間もない時期からいたようだがが、一般的にタレント議員第一号と言われるのは1946年戦後初の衆議院選挙に、東京1区で当選した吉本興業(当時東京吉本)所属の演歌師・石田一松のようだ。当時はタレントという用語は無く、「芸能人代議士」と形容されていた。

「タレント議員」という呼称がマスコミ等で使用されるようになった契機は、職業を「タレント」と称した藤原あきさんが、1962年の参院選でトップ当選した際の報道だった。
山東昭子氏が当選したのは1974年の参院選だが、同じ選挙で元NHKアナウンサーの宮田輝氏がトップ当選。3年後の参院選では同じくアナウンサーの高橋圭三氏が当選している。

1983年には参院選の全国区制が廃止、政党重視の拘束名簿式比例代表制が導入され、タレント政治家は必ずしも有利とは言えなくなった。しかし、2001年から個人名でも投票できる比例代表制、非拘束名簿式に改定されたため、知名度による集票力を見込んで政党がタレント候補を擁立するケースが注目されるようになった。

今回の比例ではタレント候補が12名立候補したが、結果は前述の山東氏と元スケート選手の橋本聖子氏ら前職と、立民新人の元格闘家の須藤元気氏の3名が当選したのみ。話題を集めた元アイドルはあえなく落選。集票力は限定的だったようだ。一方で落選したものの、山本太郎氏が“れいわ”の2議席確保に大きく貢献したことは特筆される。

今回の選挙結果で、個人的な知名度に頼るといった政党の安易な選挙戦術は、もはや功を奏さないということがはっきりした。国民の意識の変化と分析することもできるし、SNSの利用という新しい選挙ツールが反映された結果との見方もある。
自民党の比例区で立候補した山田太郎氏は、山本氏と同じく特定の組織を持たない候補だったが、539,566票を獲得して実質的に比例順位2位で当選した。支援者から若者が多く利用するLINEやツィッターで、政策や街頭演説の情報を拡散してもらう“ネットどぶ板”選挙を展開し、再選を果たした。

いずれにしても、衆議院の小選挙区では政権運営の成否で風向きは一気に変化する。これからも日々緊張感を持って活動して行きたい。
連日猛暑が続いておりますが、皆様にはご健勝でお過ごし頂きますように。