新たなる誓い

「安倍政権の下では憲法改正の議論はしない」という、一部野党の全く訳の分からない理由で休眠状態だった憲法審査会。菅政権に代わったからか(?)先週末、一昨年6月に提出された「国民投票法改正案」の審議がようやくスタートした。

日本最初の憲法である大日本帝国憲法が公布され国会開設の勅諭が出されたのは1889年(明治22年)2月11日。翌年の11月29日に第1回帝国議会の開院式が行われている。今年で130周年を迎え、昨日(29日)参議院本会議場にて、天皇・皇后両陛下ご臨席の下、式典が執り行われた。コロナ禍の感染拡大に配慮して参列者は限定されたが、議員在職歴25年以上(永年勤続)ということで、私も出席の栄に浴した。

この機会に議会の象徴である議事堂の歴史を辿ってみたい。

開院式が行われた当時、財政難と工期の問題から議事堂は現在の場所ではなく、今の経済産業省の辺りに仮議事堂として建設された。ただ、会期中の翌年1月未明に漏電により出火、仮議事堂は全焼した。やむを得ず、貴族院は華族会館(旧鹿鳴館)、衆議院は東京女学館(旧工部大学)に移して会期を終了したという。

初代と同じ場所に建設された第二次仮議事堂も、1925年の改修作業中に火災により又々焼失したのだが、工事関係者の不眠不休の努力によって僅か80日で第三次仮議事堂が竣工したという。

現在の議事堂が完成したのは1936年(昭和11年)11月。関東大震災や2・26事件など、国家の危急存亡の困難な時期を経て17年の歳月を要して完成した。この白亜の殿堂ができるまでの46年もの間、わが国の国会論議は霞ヶ関の木造仮設建築内で行われたことになる。

例外は、1894年の第7回帝国議会。日清戦争の勃発によって大本営が広島に移されたため、国会も同地の臨時仮議事堂に召集された。東京以外で国会が開催されたのはこの一度だけである。

第2次世界大戦後の1946年(昭和21年)に日本国憲法が公布され、議員内閣制の確立により国会が国権の最高機関に位置づけられ、国会議事堂は名実ともにその権威を象徴する施設となった。現在、広大な議事堂の前庭は全国47都道府県の樹木が植栽されて整備されているが、戦後の食糧難の時代には農場と化していたこともあった。

以上議事堂の歴史を紹介したが、実は私も今回の式典に際し改めて来歴を顧みるまで、前述のような変遷については全く知らなかった。

国会議事堂130年の歩みには様々な出来事が刻み込まれているが、中でも私の印象に強く残っているのは、1960年の安保闘争である。(当時私は中学生であり、あとから顧みてのことだが…)。6月15日、“安保反対、岸倒せ”を唱え、国会を取り囲んだ10万人を超えるデモ隊は、国会正門を破り前庭に突入、大混乱の中、東大生であった樺美智子さんが群衆に押しつぶされて命を落とした。

衆議院の安保改定の採決をめぐっては、野党議員が議長席に詰め寄り、当時の清瀬一郎議長(東京裁判の東條英機主任弁護人、母校姫路西高の大先輩だ)は自席で立ち往生。隙をみて議場から連れ出したのは、父・渡海元三郎をはじめ清瀬先生に薫陶を受けていた若手議員だったと聞いている。

60年安保から10年を経て、再び安保改定が行われた1970年は、全国的に学園紛争が吹き荒れていた。大学キャンパスにスローガンを大書したいわゆるタテ看板が並び、多くの校舎が机や椅子で封鎖された。当時大学生であった私はデモにこそ参加しなかったものの、学生集会には出かけたことはある。大学4年の時には、大学紛争を鎮静化することを目的に「大学運営に関する臨時措置法案」が採択されたが、これに対して「大学自治の精神を阻害する」としておこなわれたストには積極的に参加した。

今年は多くの大学キャンパスがコロナ対策で封鎖されたが、同じ封鎖でも当時のものとは全く意味合いが異なる。不謹慎と言われるかもしれないが、ニュースで香港やバンコクのデモの光景を見ると、青春が甦り懐かしい思いがする。日本にも同じような時代、若者が躍動する時代があったことは、歴史に刻んでおくべきだろう。

130周年記念式典の冒頭、国歌君が代が議場に流れた時、何時にも増して心に感動を覚えたのは、この建物の歴史の重みだったのだろうか…。

議会開設130周年という節目の時にあたり、改めて先人の心に思いを馳せるとともに、これまでの議員活動を振り返りつつ、日本の未来を切り拓くべく更なる努力を重ねる誓いを新たにしたい。

 

追伸 全国的に新型コロナウィルスの感染が拡大しています。地元の兵庫県でも、度々過去最高の感染者数が報告され、医療現場にも危機感が高まりつつあります。この難局を乗り越えるには国民の皆様のご協力が欠かせません。三密回避、手洗い、マスク、換気など、withコロナの生活様式を心がけて頂きますようお願いいたします。

大統領選の行方

3日に投票が行われたアメリカ大統領選挙は、再選を狙うトランプ大統領と政権奪還を目指すバイデン前副大統領の激しい競り合いが続いていたが、7日(日本時間8日未明)になって主要メディアが一斉に、バイデン氏が当選を確実にしたと報じた。

これを受けてバイデン氏は地元デラウェア州で勝利宣言を行い、「私は分断ではなく結束を目指す大統領になる。トランプ大統領に投票した人の失望を理解している。しかしお互いにチャンスを与え合おう。激しい言葉をやめる時だ。互いを見て耳を傾け合おう。相手を敵視するのはやめよう。みんなアメリカ人なのだ」と、国民の融和と団結を訴えた。

これまでの大統領選挙であれば、ここで敗者が「自ら負けを認めて、勝者へのエールを送る」ことで勝敗が決着するのが通例であった。ところが今回は少々様相が異なる。

トランプ大統領は未だに「大統領選挙はまだ終わっていない。バイデン氏の勝利は接戦となっている州はもちろん、どの州でも確定していない」との声明を発表。「選挙に関わる法律がきちんと執行され、本当の勝者が決まるように裁判を通じて求めていく」として、あくまで訴訟で対抗する姿勢を示している。大統領の家族からも敗北の受け入れを促しているようだが、どうやら簡単に負けを認める気はなさそうだ。暫くはアメリカの混乱が続くことになるかもしれない。

ここに至る一連の大統領選キャンペーンの様々な光景は、わが国とは全く違ったシーンの連続だった。

そもそも議員内閣制の日本と大統領制のアメリカでは比較することが難しいと言えるが、大統領が専用機で各地の空港に乗り込み、空港で待つ多くの支持者を前に演説をするなど、日本ではとても考えられない光景だ。選挙戦でメディアなどを通じて激しく相手を攻撃するネガティブキャンペーンも、私の地元の播磨地方ではむしろマイナスになる場合が多いが、アメリカでは伝統的な選挙戦術のようだ。

 

全米各地で双方の支持者のデモが激しくぶつかるなど、トランプ政権の誕生によりアメリカ社会に生じた分断は、今回の大統領選で更に広がりつつあるのではないかと思う。法廷闘争などを含め、暫くは混乱が続くことも予想され、ラグビーのように「試合が終わればノーサイド」と言う状況は期待できそうにない。

それにしても発展途上国ならともかく、民主主義国家のお手本ともいえるアメリカでこのような事態が起きるとは!

超大国アメリカの混乱は、世界の政治経済に大きな影響を及ぼす。もちろん、わが国にも大きな影響がある。

欧州ではコロナ感染が拡大し、再び都市封鎖を余儀なくされている。世界的なパンデミックに終止符を打つには先進国の協力が必須である。Brexitをはじめとする自国優先主義の風潮に歯止めをかけ、国際経済連携ルールを再構築することも急がれる。地球温暖化への対応も全世界的な協力体制が不可欠である。加えてアジアの安全保障体制の揺らぎも心配だ。いずれにしてもアメリカ合衆国のリーダーシップ無くしては改善困難な課題だろう。

と言ってみても他国の内政問題である。事態を見守る事しかできない。一日でも早くアメリカの混乱が収束することを願っている。