集団的自衛権

先日、自民党総務懇談会が開催された。この会議は、党内で見解が分かれる問題について、時間をかけて忌憚なく意見を述べ合い、意見集約を図っていくもので、開催は実に9年ぶり。郵政民営化をめぐる論戦以来となる。

議題は、「憲法解釈の変更による集団的自衛権行使容認に向けた閣議決定への進め方について」。我が国の安全保障のあり方、ひいては国運を大きく左右するものだ。

 

一般的に集団的自衛権とは、「自国と密接な関係にある国が攻撃された場合、自国が攻撃されていなくても、自国が攻撃されたと見なして反撃する権利」であり、国連憲章によりどの国にも認められている。

我が国も当然この権利を有しているが、政府見解として、必要最小限度の武力行使の範囲を超えるので、“憲法上行使は許されない”という解釈がなされてきた。

 

この永年の呪縛を取り除き、集団的自衛権行使を容認することは、我が自民党の2012年総選挙、昨年の参院選の選挙公約であるが、問題はその手法だ。

 

公約集には、「政府において、我が国の安全を守る必要最小限度の自衛権行使(集団的自衛権を含む)を明確化し、その上で『国家安全保障基本法』を制定する」と明記されている。

ここに“憲法改正”という文言が無いのだから、「解釈変更を前提に、それを明示する新法を定める」という読み方ができないことはない。

しかし、本質的な手続きとしては、憲法を改正し、その中で集団的自衛権を含む国防や安全保障の概念を明確に定義すべきだ。

 

今回の会議は“論戦”ではなく“意見表明”の場として運営されたため、対立紛糾するようなことはなかったが、積極的な解釈変更容認論から立憲主義的立場から憲法改正を本義とする慎重論、更なる丁寧な議論の継続性を求める意見まで、幅広い意見が提起された。

 

私自身はこれまで「憲法改正が筋である」との立場をとっている。

しかし、尖閣南沙諸島をめぐる中国の軍事圧力、北朝鮮の核と弾道ミサイルの脅威、あるいはウクライナ情勢を巡るロシアの軍事的復調など、世界の軍事的緊張は東西冷戦時以上に高まりつつある。

このような状況、米軍と自衛隊の共同作戦がいつ求められてもおかしくない状況のなかで、改憲議論や手続きに長時間を費やすことが許されるのか? 平和を維持し国民の生命を守るという政治の使命を果たすためには、解釈変更もやむを得ないのではないか? 大いに悩むところであり、正直言って心は揺れている。

 

(少々古い例だが)最高裁は1959年の砂川事件判決(※)で、「わが国が自国の平和と安全とを維持し、その存立を全うするために必要な自衛のための措置を執り得ることは国家固有の権能の行使であって、憲法は何らこれを禁止するものではない」としている。

これは、集団的自衛権が“必要な自衛のための措置”であれば、現行憲法はその行使を認めるということ(=解釈変更が可能と言うこと)である。

 

仮に閣議決定により政府見解を変えるとしても、国民の理解を得るための丁寧な説明が必要なのは言うまでもない。集団的自衛権とは何か、その行使としてどのような事案が想定されるか、仮に行使しなければどのような弊害が生じるのか。様々な局面を想定し、具体的なケーススタディを行い、国民に示さなくてはならない。

 

アメリカが世界の警察官として君臨する時代は終焉し、世界は多極化、無極化の時代を迎えようとしている。我が国の平和と安全を維持するために何が必要か、世界の安全保障のために我が国が果たすべき役割は何か、いま日本の政治家一人ひとりに難しい判断が求められている。

 

 

 

※砂川事件=1955~57年。東京都砂川町で起こった米軍立川基地拡張工事に反対する闘争で流血事件に至る。基地内に入ったデモ隊のうち数名が刑事特別法違反として起訴された。日米安保条約と憲法の適合性が初めて法廷で争われた。